叙事詩『イリアス』において、敵役でありながらギリシャ軍のアキレウスと並ぶ主人公格として描かれるトロイアの王子ヘクトール。彼は怪物的な強さを持つアキレウスとは対照的に、知勇兼備の将軍であり、妻と子を愛する家庭人でした。滅びゆく祖国を背負い、勝ち目のない戦いに挑み続けた「トロイアの盾」の生き様を紹介します。
トロイア最強の戦士にして最高の人格者
兜煌めくヘクトール
ヘクトールはトロイア王プリアモスの長男であり、全軍の総指揮官です。弟パリスがヘレネを誘拐したことで始まった理不尽な戦争に対し、彼は弟を叱責しつつも、兄として国を守るために最前線に立ち続けました。 武勇においてはギリシャ軍の英雄アイアスと互角に渡り合い、何千もの敵を屠りましたが、その本質は平和を愛する守護者でした。戦場へ向かう前、兜を見て泣き出した幼い息子をあやす父親としてのシーンは、『イリアス』屈指の名場面です。
アキレウスとの一騎打ち
パトロクロスの死
ヘクトールは、アキレウスの鎧を借りて出陣した親友パトロクロスを討ち取ります。これに激怒したアキレウスは戦場に復帰し、ヘクトールを執拗に追いかけました。
遺体の凌辱と返還
神々の天秤が傾き、アテナの計略もあってヘクトールはついにアキレウスに敗れ、喉を槍で貫かれます。死後、その遺体はアキレウスの戦車に引きずり回されるという屈辱を受けましたが、深夜に敵陣を訪れた父プリアモス王の涙の懇願により、遺体は返還されました。彼の葬儀をもって、長大な『イリアス』の物語は幕を閉じます。
中世騎士道の祖
デュランダルの元の持ち主?
後世の伝承(『狂えるオルランド』など)では、聖剣デュランダルは元々ヘクトールの愛剣であり、それが巡り巡ってローランの手に渡ったとされています。中世ヨーロッパでは、彼は「九偉人(歴史上の最も偉大な9人の騎士)」の第一席に選ばれ、騎士道の模範として神格化されました。
サブカルチャーでの扱い
『Fate/Grand Order』では、「おじさん」と自称する飄々としたランサーとして登場。しかし、ここぞという時はアキレウスさえ出し抜く老獪さと実力を見せ、「さすがトロイアの大将」とファンを唸らせました。
【考察】なぜ敗者が賞替されるのか?
悲劇の美学
ヘクトールは「人間的な英雄」の極致です。神の血を引く半神(アキレウス)のような理不尽な強さは持たず、恐怖や迷いを抱えながらも、義務と愛のために死地へ向かう。その姿は、勝者であるアキレウス以上に読者の共感を呼び、西洋文学における「高潔なる敗者」の原型となりました。
まとめ
ヘクトールは、力のみが正義とされる戦場において、愛と責任を貫こうとした英雄でした。トロイアは滅びましたが、彼の名は「真の騎士」の代名詞として永遠に残っています。