「大楠公(だいなんこう)」として親しまれ、日本史上最高の軍略家の一人とも評される楠木正成。河内の「悪党」と呼ばれる非御家人勢力の出身ながら、後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵。圧倒的な兵力差をものともせず、奇想天外なゲリラ戦法で鎌倉幕府軍を翻弄しました。「七生報国(七度生まれ変わっても国に報いる)」の精神で知られる彼の忠義と知略は、後世の武士道にも多大な影響を与えました。
変幻自在の戦術
赤坂・千早城の戦い
正成の名を不動のものにしたのは、山城での籠城戦です。赤坂城や千早城では、幕府軍数万(号称)に対し、わずか千人足らずの手勢で対抗しました。大木やよりを落とす、熱湯を浴びせる、藁人形を兵士に見せかけるなどの奇策を用い、数ヶ月にわたって大軍を釘付けにしました。この奮戦が全国の反幕府勢力を勇気づけ、鎌倉幕府滅亡の引き金となりました。
ゲリラ戦の天才
彼の戦い方は、当時の武士の常識であった「正々堂々の一騎打ち」とは一線を画すものでした。地形を利用し、伏兵や奇襲を多用する合理的な戦術は、当時の人々にとって魔法のように映ったかもしれません。孫子の兵法に通じていたとも言われています。
湊川の戦い
桜井の別れ
建武の新政が崩壊し、足利尊氏が九州から大軍を率いて攻め上ってくると、正成は「一度京都を捨てて敵を引き込み、兵糧攻めにする」という必勝策を提案しました。しかし、公家たちは「帝が都を落ちるとはなにごとか」とこれを却下。無謀な出撃を命じられます。死を悟った正成は、桜井の宿で息子・正行に「今生の別れ」を告げ、形見の短刀を渡して故郷に帰しました。これが唱歌『青葉茂れる桜井の』で有名な「桜井の別れ」です。
七生報国
わずかな手勢で湊川(現在の神戸市)に出陣した正成は、足利軍の大軍に対し、16度もの突撃を繰り返す獅子奮迅の戦いを見せました。しかし衆寡敵せず、最後は弟の正季と「七度生まれ変わって朝敵を滅ぼそう」と誓い合い、刺し違えて自害しました。
後世の評価
三大軍神
江戸時代には水戸学の影響で「忠臣」としての評価が定着し、明治維新の志士たちにも崇拝されました。源義経、真田幸村と並び、日本史上の「悲劇の英雄」「三大軍神」として数えられることもあります。皇居外苑には彼の騎馬像が置かれ、今も皇挙の方角を見つめています。
まとめ
知略に優れながらも、私利私欲ではなく信義のために命を燃やした楠木正成。その生き様は、日本人の琴線に触れる「滅びの美学」の極致と言えるでしょう。