西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」。長州藩のリーダー、桂小五郎(かつらこごろう)、維新後の**木戸孝允(きどたかよし)**です。彼は江戸三大道場の一つ・練兵館で塾頭を務めるほどの凄腕の剣客(神道無念流免許皆伝)でしたが、幕末の京都では「逃げの小五郎」という不名誉な(?)あだ名で呼ばれました。しかし彼が逃げ回ったのは、臆病だからではなく、自分が生き残ることこそが倒幕への最短ルートだと知っていたからです。剣を捨ててペンを取った、最高のリアリストの生き様に迫ります。
池田屋事件と幾松の献身
驚異的な危機回避能力
新選組が尊攘派を襲撃した池田屋事件の日、桂も会合に参加する予定でした。しかし、たまたま「早く着きすぎたので一度帰った」あるいは「腹痛をおこした」などの理由で難を逃れました。その後も乞食に変装して橋の下に隠れ住むなど、徹底した逃亡生活を送りました。
その際、彼を支えたのが恋人の芸妓・幾松(いくまつ)です。新選組の近藤勇に尋問されても決して口を割らず、おにぎりを懐に入れて桂に届けたという逸話が残っています。二人は後に正式に結婚し、幾松は「木戸松子」として彼を支え続けました。彼が生きていたからこそ、坂本龍馬の仲介による薩長同盟が実現したのであり、「逃げ」は最大の「攻め」だったのです。
明治政府の設計者
合理主義の塊
維新後、彼は「人の命を奪う剣術は、これからの時代には不要」と悟り、刀ではなく議論と法で国を変えようとしました。五箇条の御誓文の草案作成や、版籍奉還、廃藩置県など、明治新政府の骨格を作ったのは、この「逃げの小五郎」の冷徹なまでの合理的精神でした。しかしその心労は激しく、西南戦争の最中に「西郷、いい加減にせんか」とうわ言を残して病没しました。
まとめ
戦わずして勝つ、死なずに国を動かす。桂小五郎の生き方は、血生臭い幕末において、最も理知的で、かつ最も困難な英雄の姿だったのかもしれません。