北欧神話を支える巨大な世界樹ユグドラシル。その地下深く、根の国ニヴルヘイムには、世界を内側から崩壊させようとする陰湿な脅威が潜んでいます。それが邪竜ニーズヘッグです。「怒り狂う者」あるいは「嘲笑する虐殺者」の名を持つこのドラゴンは、ファフニールのように英雄と華々しく戦うことはほとんどありません。ただひたすらに根を齧り、死者の血を啜る、薄暗く不気味な存在感において他の竜とは一線を画しています。今回は、この「生ける屍の王」とも呼べるニーズヘッグの恐るべき生態と役割について詳述します。
世界樹を蝕む寄生虫
氷の国の住人
ニーズヘッグは、極寒の霧の国ニヴルヘイムにある泉、フヴェルゲルミルのそばに住んでいます。そこは世界樹ユグドラシルの三本の巨根のうち、一本が伸びている場所です。彼は数多の蛇(グライン、モイン、ゴインなど)と共に、来る日も来る日もこの根を齧り続けています。 彼らの目的は、世界樹を枯らし、この世界(九つの世界)を崩壊させることだと考えられています。しかし、ユグドラシルは生命力の塊であり、さらにノルン(運命の女神)たちが聖なる水をかけて手入れをしているため、彼らの破壊活動は永劫に続く徒労のようにも見えます。それでも決して諦めないその姿は、ある種の執念深さや、世界の根底に巣食う「取り除けない悪意」を象徴していると言えるでしょう。彼は華やかな地上界(アースガルド)や人間界(ミズガルズ)に関心を持たず、ただひたすらに世界の土台を腐らせることに執着しているのです。
鷲との罵り合い
ユグドラシルの頂上には、フレスヴェルグという巨人が化けた巨大な鷲が止まっており、世界を見下ろしています。地底のニーズヘッグと、頂上の鷲は非常に仲が悪く、お互いに罵詈雑言を浴びせ合っています。 しかし、あまりに距離が離れているため、直接声は届きません。この二者の間を行き来しているのが、お喋りなリスのラタトスクです。ラタトスクは、鷲の悪口をニーズヘッグに伝え、ニーズヘッグの呪詛を鷲に伝える伝書鳩(ならぬ伝書リス)のような役割を果たし、二者の対立を面白おかしく煽り続けています。このコミカルかつ陰湿な関係図は、北欧神話のユニークな点の一つです。彼らはお互いに嫌いあっていますが、世界樹という一つのシステムの中で共存せざるを得ない関係なのかもしれません。
ナーストレンドの死体喰らい
名誉なき死者の末路
ニーズヘッグにはもう一つ、恐ろしい役割があります。それは「死者の肉を食らう」ことです。北欧神話において、戦いで死んだ名誉ある者はヴァルハラへ招かれますが、誓いを破った者、誘惑した者、そして殺人を犯した卑怯者は「ナーストレンド(死体の海岸)」と呼ばれる地獄へ落ちます。 そこには太陽の光が届かない北向きの巨大な館があり、天井の排気口からは蛇の毒液が滴り落ちています。ニーズヘッグはこのナーストレンドで、罪人たちの死体から血を啜り、肉を引き裂いて食べているとされます。彼は単なるドラゴンではなく、地獄の獄卒、あるいは処刑人としての側面も持っているのです。その姿は、英雄的な死を迎えられなかった者たちへの、最後にして最悪の懲罰と言えるでしょう。
冥界の支配者
一説には、彼はヘルヘイムの女王ヘルのペット、あるいは配下であるとも考えられています。ヘルの支配する死の世界において、死体を処理し、恐怖を拡散させる実行部隊としての役割を担っているのかもしれません。彼の存在は、北欧の人々が抱いていた「不名誉な死」への根源的な恐怖を具現化したものとも解釈できます。
ラグナロク後の黒い影
終末を生き延びる?
ラグナロクの物語は、神々と巨人が共倒れになり、世界が一度滅んで、新たな緑の大地が再生するところで終わります。しかし、その希望の光景の最後に、不穏な影が描かれています。 『巫女の予言』のラストシーンでは、ニーズヘッグが飛来する描写があります。「その翼に死体を乗せて、ニダフィヨルから飛んでくる」。 これが「ニーズヘッグも生き残って新世界に悪を持ち込む」ことを意味するのか、あるいは「役目を終えてどこかへ去っていく(あるいは墜落して死ぬ)」ことを意味するのかは議論が分かれています。もし彼が生き残っているとすれば、それは「悪」や「死」といった概念が、どんなに清らかな新世界においても完全に消え去ることはない、という神話作者のリアリズムの表れでしょう。光あるところに常に影があるように、ユグドラシルが再生するなら、その根を齧るニーズヘッグもまた再生するのかもしれません。
まとめ
ファフニールのように財宝を守るわけでも、ヨルムンガンドのように世界を取り巻くわけでもない。ただ暗い地底で世界を蝕み続けるニーズヘッグは、北欧神話における根源的な「腐敗」や「死」のイメージを体現する、真に恐るべき邪竜なのです。