「日本国の大魔縁(だいまえん)となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」。これほどに激しい呪いの言葉を残した人物が他にいるでしょうか。**崇徳天皇(すとくてんのう)**は、平安末期の皇位継承争い「保元の乱」に敗れ、讃岐(香川県)へ流された悲劇の帝です。配流先で憤死した彼は、怨霊となり、あるいは大天狗となって、都に災いをもたらしたと伝えられています。
高貴なる血と孤独
複雑な出自
崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれましたが、実の父は曾祖父の白河法皇であるという噂(叔父子説)があり、父である鳥羽上皇からは「叔父子(おじご)」と呼ばれ疎まれていました。譲位後も実権を握れず、弟の後白河天皇との対立が深まり、ついには保元の乱が勃発します。
讃岐への配流
戦いに敗れた崇徳上皇は、讃岐国への流罪となります。天皇または上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱淳仁天皇以来、約400年ぶりの異常事態でした。彼は二度と京の地を踏むことはありませんでした。
大魔王への転身
血で書かれた経典
讃岐での生活の中、崇徳上皇は反省と供養のために五部大乗経の写経を行いました。「この写経を京の寺に納めてほしい」と朝廷に送りましたが、後白河院は「呪いが込められているのではないか」と疑い、送り返してしまいます。
舌を噛み切っての誓い
写本を送り返されたことに激怒した崇徳上皇は、自らの舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁(悪魔)となる」という誓状を書き記しました。以来、爪も髪も切らず、夜叉のような姿になり、生きながらにして天狗になったとも言われています。彼の死後、京では大火、疫病、平家の台頭など異変が相次ぎ、これらはすべて崇徳院の祟りと恐れられました。
鎮魂と守護
白峯神宮
明治天皇は即位にあたり、崇徳天皇の御霊を慰めるために讃岐から神霊を迎え、京都に**白峯神宮(しらみねじんぐう)**を創建しました。かつての大魔王は、今では「まり(鞠)の神様」としても親しまれ、スポーツ関係者の参拝が絶えません。しかし、その凄まじい情念と悲しみは、歴史の闇に深く刻まれています。
まとめ
崇徳天皇の物語は、権力闘争の犠牲となった個人の絶望が、いかに強大な霊的エネルギーへと変貌するかを教えてくれます。彼は最強の怨霊であると同時に、最も哀しい神の一柱なのです。