「弁慶の立ち往生」。全身に無数の矢を受けながら、主君を守るために立ったまま絶命したというこの壮絶な最期は、日本人の心に深く刻まれています。京都・五条大橋での牛若丸との出会いから、奥州平泉での決戦まで。武蔵坊弁慶は単なる乱暴者ではなく、誰よりも情に厚く、知恵も回る、武士(もののふ)の鑑でした。
比叡山の荒法師
千本の刀狩り
比叡山延暦寺の僧兵でしたが、あまりの乱暴さに山を追い出されます。彼は京の都で「千本の太刀を奪う」という悲願を立て、999本まで集めました。そして1000本目を賭けて五条大橋で挑んだ相手が、小柄な少年・牛若丸(後の源義経)でした。欄干を飛び交う牛若丸に翻弄されて敗北した弁慶は、その身軽さと器量に惚れ込み、家来となることを誓います。
勧進帳と立ち往生
安宅の関での機転
兄・頼朝に追われて逃避行を続ける義経一行。安宅の関所では、怪しまれた義経を救うため、弁慶は主君である義経を「荷物持ちのゴロツキ」として杖で打ち据えます。「主君を殴るなんて、本物の家来ならありえない」と思わせるための、血の涙を流しながらの芝居でした。これには関守の富樫左衛門も心を打たれ、正体に気づきながらも通行を許可したと言われます(歌舞伎『勧進帳』)。
衣川の戦い
最後は藤原泰衡の裏切りにより、衣川の館で大軍に包囲されます。弁慶は堂の入口に立ちはだかり、薙刀を振るって敵を寄せ付けませんでした。雨のように矢を射かけられても一歩も退かず、敵が恐る恐る近づくと、彼は立ったまま息絶えていました。主君が自害する時間を稼ぎ切った、見事な最期でした。
弁慶の七つ道具
武具の達人
弁慶は薙刀だけでなく、熊手、大槌、鋸(のこぎり)など、7種類の武器を背負って戦ったとされ、これらを「弁慶の七つ道具」と呼びます。なんでも使いこなす器用さと、怪力の象徴です。
現代への影響
「弁慶の泣き所(向こう脛)」という言葉は、あんなに強い弁慶でもここを打てば泣いて痛がる、という急所の意味で使われています。
【考察】実在したのか?
『吾妻鏡』の記述
歴史書『吾妻鏡』にはごくわずかですが「武蔵坊弁慶」の名が登場します。しかし、現在伝わるエピソードの多くは室町時代の『義経記』で創作・脚色されたものと考えられています。判官贔屓(ほうがんびいき)の日本人にとって、悲劇の英雄・義経には、彼を支える最強の巨漢が必要不可欠だったのでしょう。
まとめ
主君のために泥をかぶり、矢を受け、命を使い切った武蔵坊弁慶。その姿は「忠義」という言葉の、最も熱く、最も悲しい形として語り継がれています。