「義」と「愛」の狭間で苦悩し、破滅の道を選んだ悲劇のプリンス。近江(滋賀県)の若き大名・**浅井長政(あざいながまさ)**は、織田信長の妹・お市の方を妻に迎え、信長と同盟を結んでいました。美男美女の夫婦仲は睦まじく、まさに順風満帆に見えました。しかし、信長が浅井家の古い盟友である越前の朝倉家を攻めた時、彼は究極の選択を迫られます。愛する妻の兄をとるか、父祖以来の恩義をとるか。彼が下した決断と、その壮絶な最期を紹介します。
金ヶ崎の退き口と反逆
義理を選んだ男
信長と同盟を結ぶ際、「朝倉家には手を出さない、もし攻める時は一報を入れる」という約束があったと言われています。しかし信長はそれを破り、無断で朝倉領へ侵攻しました。長政の家臣たちは「朝倉を見捨てるわけにはいかない」と激昂。長政もまた悩み抜いた末に、「信義」を重んじる武士として、信長を裏切って背後から襲撃する決断をしました(金ヶ崎の戦い)。
お市の方から送られた「小豆袋」の密書(諸説あり)によって裏切りを知った信長は驚愕し、命からがら京都へと逃げ帰ることになりました。これは信長の人生最大の危機の一つでした。
小谷城の戦いと別れ
髑髏(ドクロ)の盃
その後、姉川の戦いなどで織田軍と激闘を繰り広げますが、圧倒的な兵力差の前に徐々に追い詰められ、ついに居城・小谷城を完全に包囲されます。彼は落城寸前、妻のお市と三人の娘(茶々・初・江)を信長のもとへ返し、自らは城と運命を共にし、29歳の若さで自刃しました。
死後、信長は長政と朝倉義景の頭蓋骨を薄濃(はくだみ=金箔などで装飾すること)にし、新年の酒宴で披露したという逸話があります。これは死者への冒涜とも取れますが、一説には敵将への敬意や、魔除けの意味があったとも言われています。いずれにせよ、彼の死は戦国の世の非情さを象徴する出来事となりました。
まとめ
時代に翻弄されながらも、最後まで自らの美学を貫いた浅井長政。彼が守り抜いた三人の娘たちは、後に豊臣家に嫁いだり、徳川将軍の母となったりして、天下の行く末を左右する「浅井三姉妹」として歴史に名を刻むことになります。