イギリスのサセックス地方にある静かな田舎町リムンスター。そこの地面には、「ナッカーの穴(Knucker Holes)」と呼ばれる決して底につかない深い池があります。かつてその深淵には、家畜や村人を襲う冷酷な水竜、ナッカーが潜んでいました。中世ヨーロッパのドラゴン伝説の中でも珍しい、特定の地域に根付いた「水場」のドラゴン伝承です。
水穴の主
ニッカー(水魔)
「ナッカー(Knucker)」という名は、古英語で水の怪物を意味する「ニッカー(Nicor)」に由来し、北欧神話の「ニクシー」や「ノッカー」とも同語源です。多くのファンタジー作品でドラゴンが洞窟や高い山に住むのに対し、ナッカーは冷たい地下水脈や湿地帯の底なし池に棲処を持つ、典型的な水棲ドラゴン(ワーム)です。常に水気を含んだ空気を好み、日差しの強い場所を嫌います。
猛毒の脅威
彼は巨大な蛇のようなとぐろを巻く体を持ち、一応翼も持っていますが、空を飛ぶのは主に獲物を探す短い時間だけです。彼の最大の武器は、火炎ではなく「猛毒」です。その息や唾液には致死性の毒が含まれており、彼が通り過ぎた後の草木は枯れ果て、その息を吸い込んだ人間は高熱を出して命を落とすと恐れられました。村人たちは彼を恐れ、定期的に家畜を生贄として捧げて被害を逃れようとしました。
ジム・パルクの伝説
毒入りのパイ
多くのドラゴン退治が聖騎士や高貴な英雄によって成し遂げられる中、ナッカーを倒したのは「ジム・パルク(Jim Pulk)」という地元の貧しい農家の少年でした(伝承によっては老人という説も)。彼は剣や魔法といった力ではなく、農民ならではの「知恵」を使いました。ナッカーの好物である巨大なサセックス・パイを焼き、その中に強力な毒薬をたっぷりと仕込んだのです。パイを食べて苦しみ悶えるナッカーの隙をついて首を鎌で切り落とし(あるいは毒で死ぬのを待って)、彼は村の英雄となりました。この物語は、超自然的な脅威も人間の知恵と勇気で克服できるという、庶民の希望を伝えています。
まとめ
ナッカーは、自然界の水場の危険性と、それを克服しようとする人々の土着的な知恵が結びついた、サセックス地方を代表するユニークなドラゴン伝説です。今でもリムンスター教会には、ナッカーを退治した英雄の墓石が残されています。