ドラマやゲームでは「お歯黒をして太った公家かぶれの軟弱者」として描かれがちな今川義元(いまがわよしもと)。しかし史実の彼は、駿河・遠江・三河の三ヶ国を支配し、若き日の徳川家康や織田信長にとって巨大な壁として君臨した、東海道最強の覇者でした。「海道一の弓取り(東海道一の武将)」と称えられた彼の実力と、なぜ歴史の敗者となってしまったのか、その真実に光を当てます。彼は決して無能ではなく、むしろ時代を先取りしすぎた名君だったのかもしれません。
優れた政治家・戦略家
今川仮名目録と太原雪斎
義元は名門の出でありながら、非常に合理的な政治を行いました。名軍師・太原雪斎と共に検地を実施し、独自の法律である「今川仮名目録」を追加制定して、家臣団の統制と領国支配を強固にしました。これは後の戦国大名たちの分国法のモデルともなりました。
また外交面でも、宿敵である武田信玄や北条氏康と「甲相駿三国同盟」を結ぶことで背後の憂いを断ち、万全の体制で西方(京都)への進出を目指しました。流通経済の掌握や文化の振興にも力を入れ、当時の駿府(静岡)は「小京都」と呼ばれるほどの繁栄を誇っていました。当時の彼は、間違いなく天下人に最も近い男の一人だったのです。
桶狭間の戦い
まさかの結末
永禄3年(1560年)、2万5千とも言われる大軍を率いて尾張へ侵攻した義元は、勝利を確信していました。しかし、桶狭間山(または田楽狭間)で休息中に、豪雨に見舞われます。その雨音に紛れて接近した、わずか2千の織田信長軍による奇襲を受けました。
総大将の本陣が襲われるという異常事態に、今川軍は大混乱に陥ります。義元は輿から降りて自ら刀を抜いて奮戦し、敵兵の指を食いちぎるほどの抵抗を見せましたが、最後は毛利新介によって討ち取られてしまいました。この一戦がなければ、信長の天下統一も、家康の江戸幕府もなかったかもしれません。歴史の「もしも」を最も感じさせる瞬間です。
まとめ
たった一度の敗北ですべてを失った今川義元。しかし彼が築いた統治システムや文化は、後の天下人たちに多大な影響を与えました。彼は間違いなく、戦国時代を代表する傑物の一人であり、再評価されるべき英雄です。